*** 2004年7月15日(木)~11日目、神様の小粋 ***

 4:00に目が覚めた。寝直してみたが、次に目が覚めたのは5:00。諦めて起床した。

 この宿、何と朝食がついている。パンとサラダとコーヒー・紅茶、おかわり自由。パンを焼くのもご自分で、という徹底したセルフサービス。あるいはお好みの焼き具合でどうぞ、という心配りなのかもしれない。
 昭和末期の食卓のようで、何とも懐かしい気がした。紅茶にコーヒーミルクと砂糖を入れたのは久しぶりだった。小学生の頃は家でこういう紅茶をミルクティとして与えられ、飲んでいた。長じていつしか格好つけて鍋で紅茶をわかしてミルクを加えたり、濃いめに出してホットミルクを入れたりするようになった。また紅茶にはめったに砂糖を入れなくなった。
 小さい頃はパンにもこだわらなかったし、サラダも横着してジュースにせず、きちんと食べていた。
 いつか自分でティーセットと紅茶をそろえたいと思っていたが、その一方でそのときある食事とお茶に満足していた。
 いつからそれを忘れたのか。

 神様は何も言わない。

 7:30にチェックアウト。駅のコインロッカーに大きい荷物を押し込んでから、岡山空港へのシャトルバスの出発時刻を確かめに駅前バス停へ行った。バス停の時刻表をのぞき込んでいると、大きながまぐちを首からぶらさげた切符売りのおじさんがにこやかに話しかけてきた。
 「何時の飛行機に乗られますか」
 「六時五十分です」
 「ああ、ではJALですね」
 即答。プロだ。
 「では逆算して、遅くてもこの時間のバスに乗られるのが良いでしょう。今日は暑いですし、涼しい空港でゆっくり飛行機を待たれてはいかがですか」
 おじさんは時刻表を示して穏やかに言った。
 「はい、ではその時間にまた参ります」
 「お待ちしております」
 おじさんはゆっくりと頭を下げた。

 駅前の大きな通りを後楽園へと向かって歩く。……と、道路のど真ん中を何気なく通り過ぎていった電車に思わず振り返る。

 路面電車ではないか!

 東京で岡山の地図を調べたとき、確かに岡山駅から電車が出ているのを見た記憶はある。しかしそれは目的地と関係ないところへと続くただの地元ローカル電車だろうと思い、気にも留めなかった。
 いやまあ確かに路面電車も地元ローカル電車ではある。しかし路面電車だ。車に混ざって道路を走るのだ!
 東京にも路面電車は走っているが、乗る機会がない。わたしは自分が運転するといった恐怖を伴わない乗り物に乗るのは大好きである。路面電車に乗りたい。しかしもうかなり歩いてしまい、後楽園は近い。諦めてそのまま歩いた。

 8:00には後楽園入口に着いた。分かれ道の案内表示板でそれを確認したとき、ふと表示板の別方向に示されているものに気づいた。
 「水辺のももくん」
 ……気になる。ももくんって何だ。土地柄、桃太郎だろうか。でもどうして水辺なんだ。
 が、まずはとにかく後楽園だ。

 入場券売り場のおばちゃんも、感じが良い。
 ちょっと世間話してから入園して、適当にざくざく歩いているうち、例によって自分の現在位置がわからなくなってきた。
 「あの看板の順路に沿って行ったら良いのではないか」
 神様が言った。そういえば、「説明テープ順路はこちら」の小さな看板が要所要所に立っており、それぞれに番号がふってある。わたしは8番から順路に従い、最後まで行ってから1番~7番をたどった。

後楽園の案内テープ順路 後楽園
後楽園 後楽園

 見どころを効率よく回り、後楽園を出る。次は橋の向こうにある岡山城を見るべきか、それともかなり遠いが気になる「水辺のももくん」を確かめるか。
 悪いが基本的に城に興味はない。水辺のももくんへと向かう。
水辺のももくん
 「水辺のももくん」は、まさにその名の通り水辺に立つももくんの像だった。しかし考えてみると奇妙な像だ。桃太郎は桃の中から生まれたはず。その桃太郎が、なぜ桃を掲げて微笑んでいるのだろう?

 ともあれ、橋のたもとまで戻ってくると、まあせっかく来たんだからと岡山城に寄る(無礼者)。
 岡山城は漆黒のボディで「烏城(うじょう)」という別名をもつ。現在のは再建されたものとのことで、内部にはエレベーターとクーラーが入っている。戦国ビデオを楽しみ、城を出る。

 次に向かったのは岡山で一番回りたかったオリエント美術館。アッシリアの企画展をやっていた。倉敷の大原美術館ともども東京に持って帰りたい。東京の池袋にあったオリエント博物館は閉館してしまったので、今後の展示予定をパンフレットで眺めれば眺めるほど、岡山の皆さんが羨ましい。
 思いの外早めに目標地点を回れたので、出発までの時間をどうしようか、と美術館の喫茶室でお茶をしながら神様と作戦会議をした。
 「この近くに、岡山屈指のラーメン屋があるぞ」
 「えっ!」
 神様の言葉に、ほとんど見もしないでいたガイドブックを開いてみた。なるほど、「天神そば」が美術館から目と鼻の先だ。
 「その後で、バラ園に行くのはどうだ」
 「バラ園……いいですね、でもこう暑いんじゃ他の庭園みたいにほとんど咲いていないかも」
 とはいえ、他にこれと思うところもなく、わたしは神様の提案に従うことにした。

 わたしはラーメンが好きである。学生時代にはラーメン愛好会という別にこれといった組織も活動もない謎の団体に身を置き、ギョーザ支部長という本人を含め何をするどんな長なのか誰も知らない役目に就いていた。ちなみにわたしはラーメンにもギョーザにも詳しいというわけではないし、味覚が鋭いというわけでもない。ただフツーにラーメンが好きで、ラーメンのメッカ・荻窪を訪れる際には、そこに住む友人にいつもラーメン屋を案内してもらう程度だ。
 そんなわたしでもおいしいとわかるほど、天神そばはウワサに違わぬ絶品だった。ラーメンの名前は全部番号。鶏ガラのかなり濃そうなスープだったが、後の体重のことなど気にせず最後の一滴まで飲み干してしまった。
 行列が絶えない店だと聞いており、昼時だったので入れるか心配だったが、あまりの暑さに客足は少なかったようで、待たずに入れた。店はとにかく小さい。座席数は12程度ではないだろうか。そこにお運びのおばちゃんがなぜか二人もいる。おばちゃんは気さくで、ラーメンの湯気で鼻をすする人にわざわざティッシュを箱から一枚取って渡してくれたりする。

岡山の路面電車  大満足で天神そばを出ると、目の前に路面電車の駅があった。バスの出ている岡山駅までは歩いてでも行ける。が。路面電車に乗りたいという欲望に耐えられず、いそいそと駅に入る。
 反対方面の路面電車が走っていく。さっき見たのとは車体の色が違う。それぞれが広告車になっているらしい。
 やがて駅へと向かう路面電車が曲がり角の向こうに見えてきたが、なぜか途中で止まる。車と一緒に横断歩道でちゃんと信号待ちをしているのだ! かわいいではないか!
 路面電車でうきうき駅前に戻り、そこからバスに乗ってRSKバラ園へと向かう。バスターミナルでは、がまぐちを吊してにこにこ働くさっきの切符売りのおじさんの姿が見えた。この暑いのに大変だ。

RSKバラ園  平日であるうえ、この暑さである。バラ園にはわたしの他に誰もいなかった。
 しかしバラはけっこう咲いていた。ハスも美しい。
 テントの下の椅子でお茶をしながらバラを眺め、ふと思った。
 誰もいないということは、今このたくさんのバラはわたしだけのために咲いているんだな、と。
 旅の最後に、思わぬ贅沢をした。
「なんやねん(神様も女心をくすぐるのがうまいね)」
 背中のイルカが言った。

 バスに乗り天満屋で降りると、シャトルバスの時間までそこでお茶を飲んだ。
 五時前に空港バスの前に行くと、やはり切符売りのおじさんはにこにことそこにいた。すごいな、一日仕事だ。
 岡山空港に向かう人はけっこういたので忙しそうだったが、わたしが切符を買う番になると、穏やかに一言。
 「お待ちしておりました」
 朝ちょっと話しただけの相手を覚えているとは。やはりプロだ。
 そして時間がきてバスが出発したとき、切符売りのおじさんはバスが見えなくなるまで丁寧に深く頭を下げていた。
 この、昔ながらの古き良き職人気質に接して、わたしは思わずボロホテルの朝食のときに似た感慨をもよおした。

 わたしのように、こんなにどんくさく要領の悪い波瀾万丈な国内旅行をする人はそういないと思うが、旅を終えて思うことは、旅慣れていて異国から異国へと洗練された旅をできる人やゴージャスな旅、快適な旅を終えた人たちと同じ、いたって独創性のない、普遍的なものだ。

 『旅に出てよかった。
 またどこかへ行きたい』

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